詩人オヴィディオの故郷 芸術と美食の町スルモーナ

我が麗しのスルモーナ

美しく落ち着いた佇まいは私たちスルモナっ子の自慢、街並みは様々な時代の様式に彩られながらエレガントさで統一されています。ルネッサンスとバロックが混在する建物の間を散歩する夕暮れ前、味覚や芳香豊かな祝日、名物の赤ニンニクも並ぶ賑やかなメルカート、スルモーナは訪れる人々をいつでも温かく迎えます。

そして緑の山々。まるで王冠のように町を囲み果てない青空に向かって聳える壮大な眺めを美しい邸宅のテラスから仰ぎ、モスカテッロを啜りながら偉大な詩人オヴィディオの人生や愛を謳った作品について語り合いましょう。

伝統的行事Giostra Cavalleresca期間中のスルモーナは独特な雰囲気で満たされます。6つに分かれた旧地区のライバル意識やその間に芽生えた禁断の恋…。

現実に戻って入り組んだ十字路を抜けていくと目の前に広がるのは壮大なサンタマリア・ダヌンツィアータ宮殿、教会のファサードにいる小さな天使たちを見てください。ミケランジェロと一緒にフィオルッチのデザインを思い出してびっくりするのではないでしょうか。

もうひとつ面白いポイントを教えましょう。Orefici小広場からぐるりと見回すと、かつて栄華を誇った3王国の名残が三角形を作っています。シチリア王国ホーエンシュタウフェン朝時代1251年の水道橋、アンジュー朝ナポリ王の勅令で1290年に建設されたサンフランチェスコ・デッラ・スカルパ教会、そして噴水はスペイン・アラゴン王家に捧げて作られたものです。この場所を歩きながら長い歴史に思いを馳せてみてください。歴史の変遷をそこかしこに残す宝石箱、これぞアブルッツォなのです。

人々を魅了してやまない私の町スルモーナ。

メインストリートCorso Ovidioには色とりどりのコンフェッティで作った花が咲き乱れるコンフェッティ・ショップや優雅で歴史ある建物が軒を連ね、ショッピングも散策も一緒に楽しめる私たち女性に嬉しい町です。

2016年6月18日 スルモーナにて

アントネッラ・ゴット (1969年10月18日- 2017年8月23日)

古代ラテン文学巨匠オヴィディオ

紀元前43年スルモーナ生まれの偉大なる詩人プブリオ・オヴィディオ・ナソーネ(プブリウス・オヴィディウス・ナソ(紀元前43年3月20日 - 紀元17年又は18年)は父が進める法医学の道に進まず詩作に生涯を捧げた。恋歌、変身物語、哀歌など古代ラテン文学で最も賞賛された作品の数々を生み出し皇帝アウグストゥスやローマ帝国の政治家達より評価を得ながらキャリアのピークに皇帝アウグストゥスその人によってトミス(現在のルーマニア・コンスタンツァ)に追放される。理由は、皇帝の近親者と秘めた関係を持った、皇帝の秘密を知っていた、作品がエロティックすぎたなど様々な憶測が存在するが明らかになっていない。皇帝への懇願も叶わずイタリアへ帰ることなく紀元17年に流刑の地トミスで没する。コンスタンスツァはスルモーナの姉妹都市であり、1120日広場には同じ像、この偉大なる詩人の像が建っている。

2017年スルモーナでは没後2000年を記念して様々な催しや取り組みが行われた。

Giostra Cavalleresca

夏の風物詩Giostra Cavallerescaの起源はホーエンシュタウフェン王朝の時代(1200-1290年頃)頑強な兵士たちが槍を片手に馬を駆り命がけで決闘していた頃のスルモーナです。当時のスルモーナはアブルッツォの首都、王国の重要都市のひとつでした。

馬上槍試合は17世紀に廃止されましたが現在も毎年7月から8月にかけて中世と同じジュゼッペ・ガリバルディ広場(旧名マッジョーレ広場)を土や低木で馬場に仕立て地区対抗の試合を繰り広げています。現代の騎士たちは手にした槍を使ってライバルを突き刺す代わりにコース周りに配置された3体の等身大パネルの騎士に下げられた指輪を奪い、ストップウォッチ相手にタイムを競います。

時代に合わせてアレンジしたGiostraも見所たっぷりで真夏の広場は集まる群衆の熱狂に包まれます。

町全体で過去のスルモーナを再現する試みは素晴らしく6つに分かれた地区から中世の衣装で試合会場へ向かうパレードも見応えたっぷりです。

そしてGiostraの期間には旧市街の路地が入り組む広場で伝統的な食卓を再現するPanardaという催しも開かれます。

アントネッラ・ゴット

 


パナルダ

Giostra Cavallerescaの期間中に開催される中世の雰囲気たっぷりの晩餐会パナルダは元々地主が使用人達に振る舞った盛りだくさんの昼食が語源で、借地人や農民達への感謝の印でした。日々の重労働を促し豊作をあてにする道徳的な借金と言ってもいいでしょう。

パナルダは私たちの地域における民俗的伝統や歴史の重要な1ページを築き、献身や宗教、社会経済、心理的等多くの側面を持つ文化モデルと言えます。

 パナルダの歴史

パナルダの語源はおそらく「パン(Pane)」と「ラード(Lardo)」が繋がって生じたと推定されています。このアブルッツォ伝統が文化的に再認識されたことに関してはl'Accademia Italiana della Cucina及びl'isusituto Alberghiero di Villa S. Mariaにより歴史的に重要なこの伝統が再現された功績が大きかったことを思い起こす必要があります。

スルモーナの6地区のうちのひとつ、マナレスカ地区では15年前よりパナルダを再現しています。郷土料理や地元の産物からなる晩餐ではアルベリ・ソノーリ楽団の演奏、ストリート・アーティストやミュージシャン、旗手によるパフォーマンスが正方形の広場で繰り広げられ、クレメンテ・マヨラーノ料理長がマナレスカ地区の女性料理人たちのアシストを受け伝統的料理を用意します。

ポルタ・マナレスカ地区 ニコラ・パオリッリ


美しく美味しいスルモーナ名物コンフェッティ

日本では主に結婚式のドラジェとして知られているアーモンドの入った砂糖菓子コンフェッティの歴史は砂糖が発見される前の古代ローマ時代に遡り、小麦粉と蜂蜜でアーモンドをコーティングした「貴族のお菓子」は当時より結婚や誕生など祝い事に使われていたと言います。

<味覚を楽しむコンフェッティ>

現在のコンフェッティが製造され始めたのは15世紀のスルモーナ、

丸ごと使われるアーモンドは生命の核、魂を意味しますが現在ではアーモンドの代わりにピスタチオやヘーゼルナッツ、ドライフルーツやチョコレートも使われ様々な味覚が楽しめます。

<記念日のシンボル コンフェッティ>

日本の結婚式では色とりどりのドラジェを目にしますが、コンフェッティの伝統に従うと結婚祝いのカラーは白だけなのです。白は結婚式を始め洗礼などの宗教的行事にも使われています。このように色によって祝い事が決まっており、女の子が生まれたらピンク、男の子なら水色、卒業祝いは赤で婚約するとグリーンといった具合、生まれてから黒のコンフェッティが配られる日まで人生の伴侶となるコンフェッティ、誕生祝いの色とりどりのコンフェッティは人生色々あるという意味なのでしょうか。

<工芸品コンフェッティ>

現在スルモーナの街を彩コンフェッティの花やブドウの房は白いコンフェッティをセロファンやチュールなどでひとつずつ丁寧に包みコサージュを作るような要領で作られています。手工芸品としてのコンフェッティは15世紀にサンタ・キアラ修道院(スルモーナ)で絹糸を使い作られたのが始まりだと言われています。

 

スルモーナのコンフェッティはイタリア農林省認定P.A.T.ブランド(伝統的産物)を与えられ高品質な商品として国際的にも知られています。近年では英国のロイヤルウェディングでも調達されたのはスルモナっ子たちの自慢です。

1783年創業、昔ながらのレシピで作り続けている老舗Pelinoではコンフェッティ博物館・展示室を併設しています。

http://confettimariopelino.com/museo/

 

バールと同じくらい頻繁にコンフェッテリアを見かける芸術都市スルモーナはローマからバスで2時間程度、遊びに来てくださいね。


Madonna che scappa

毎年イースターの日曜日に行われるスルモーナの宗教行事、広場を駆けるマドンナは1600年代から続いている、聖母が復活した息子に駆け寄る場面を表現したもので聖母とイエス・キリスト、聖ペトロと聖ヨハネの像が登場します。

聖ペトロと聖ヨハネの像が旧名マッジョーレ広場(現在のジュゼッペ・ガリバルディ広場)を横切り、息子の復活を告げるため聖母像のある聖フィリッポ教会の扉を交互にノックします。3度目のノックで扉はやっと開かれ冬を象徴する黒衣をまとった聖母像が現れます。知らせを信じない聖母の像が担ぎ出され重い足取りで広場に向かいます。

広場の噴水に差し掛かった時、彼女は反対側の水道橋の下に立つ息子イエスの姿に気づき、この瞬間像を担ぐ人々は全速力で走り出します。喪服は脱ぎ捨てられ下から春・復活を象徴する黄緑色の衣装が現れ同時に12人の使徒の象徴12羽の白い鳩が放たれ広場は涙と歓喜に包まれます。

(写真: ウンベルト・デラモ 解説:ガブリ・ディ・マッティア)

元ローマ教皇チェレスティーノ五世とスルモーナ

鉄道駅から国道を一直線に進むと徒歩20分程度でCattedrale San Panfiloの裏手に出ます。

この聖堂の正面から細長い公園Villa Comunaleが広がり、そのまま旧市街に繋がります。

外観は”普通”、むしろCattedraleの名にそぐわないほど質素な趣きですが、内部は丹念に作り込まれ地下部分は第192代ローマ教皇として1294年に州都ラクイラで戴冠したチェレスティーノ五世の遺品や心臓組織などが陳列されています。