松並木の海岸が美しいピネート

アドリア海沿いの松並木が美しいピネートは1930年に独立するまでアトリの一部で、古代アトリの玄関口として重要な位置を占めていた。

ピネートの町

その名の通り松(ピーノ)が特徴的なピネートは鉄道駅を降りるとすぐ海。ブルーフラッグ認定の海岸沿いに松並木が続き遊歩道には自転車やジョギングを楽しむ人が行き交う。

ヨーロッパで人気のリゾート地として町並木を挟んで海岸ぞいのビーチハウスとウィークリー、マンスリーのアパートやホテルが並び賑やか。

ビーチハウスでは本格的な魚料理を提供する場所もあり、パラソルはやや割高になるものの1日単位で借りることも可能。

アトリとの間にはバスが往復している。


海洋保護区チェラーノ塔

 

チェラーノ塔の名前Cerranoは豊穣神ケレス(Ceres)に由来し、現在は地形の変化で500メートル南に移動したチェラーノという急流が流れ込んでいた時代があったことより名付けられた。

 

ここには古代アトリの港として、その後ナポリ・スペイン王国の沿岸要塞の一部である守護砦として常に重要な位置を占めてきた。

現在は生物研究センターを併設し2008年設立のチェラーノ塔海洋保護区本部を務めている。

 

古代港チェラーノ

ここには古代アトリ(Hatria)の港があったとされ、物品の貯蔵設備が整った補給港やアトリの都市生活を支える役割を果たしてきた。川を使った古代の輸送手段は家畜に頼る輸送と違って休憩や給餌の必要がないばかりか積載量が多くて揺れも少ないため経済的で迅速だった。小麦や石炭、薪、塩などの生活必需品や、城や聖堂を建設するための大きなブロックの輸送に効果的で、舷側にはワイン樽、オイル、木材などを積んでいた。

 

さらに紀元1世紀頃にはアンフォラに入れたアトリ産ワインを東洋やギリシャ、エジプト、ドナウ地域の中心アクイレイアへ輸送する拠点となったと言われる。海路利用者にとっても港はインフラの中心であり、乗務員の食料供給や損傷した船舶の修復、資材や作業員の補充、船荷の積み下ろしなど行われていた。

 

背後に3000年の歴史を持つ重要都市アトリの存在なくして港の発展はあり得なかったと言える。

 

港の遺跡

古代港の遺跡は現在チェラーノ塔に面した水中に見ることができる。

海岸線から500メートルほど先の水面下に続く正方形のブロックで、確実に人為的なものとみられる砂の文字がある。

鋭く尖った逆L字型(2 x 4 x 4m)のイストリア石の石板の存在が報告されているが、これはアトリの聖堂の建設に使用された方法と同じであり、その他にもレンガ造りの大規模な構造物、聖堂の地下貯水槽内部と似た石灰石の小さなステップ、繋柱、係留索などが推進4.7m及び11mの位置で発見された報告があるが、残念ながら砂底からの回収はスキューバダイビングでも難しいとされている。

 

守護砦チェラーノ塔

 

チェラーノ塔の歴史は、狼煙や火を使った視覚的交信や包括的な防衛システムを検討していたナポリ王国アンジュー朝カルロ2世統治下の1200年代末期まで遡る。トルコ人やサラセン人による侵略に備えた沿岸要塞の構造は現在も見られる。

15世紀になるとトルコが勢力を強め、ヴェネツィアとの中立を図る領海政策の下コンスタンティノープルを占領した後、アルバニアを征服しアドリア海の支配とイタリア侵略のための基地を得ようとオトラントを攻撃する。

1556年夏に脅威が高まったが、アトリ公アクアヴィーヴァ家ジョヴァン・ジローラモの標定点システムと防衛によりアブルッツォは破壊を免れた。

1500年代にスペイン政府がナポリ王国に即位すると包括的防衛システム案が再考されアブルッツォに14の塔を建設するよう命じる。塔は差し迫った危険を近辺の都市に警告すると共に、守備隊とカルバリン砲で装備され外敵の侵入を阻止する役目も担った。

高さ12mの塔は二段構造で、武器や大砲が配備された下階に飲食物や弾薬を備蓄し、上階では見張り番や煙による信号の送受信が続けられていた。

当時塔への出入りは木の梯子やロープが使われていたが、現在は後の時代に作られた記念階段が見られる。